ラレトラ

可賀レトラの日記と小説置き場
<< 『この腕いっぱいの幸福(しあわせ)を』 2 | main | 『この腕いっぱいの幸福(しあわせ)を』 4 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |  拍手! | にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説家志望へ
『この腕いっぱいの幸福(しあわせ)を』 3

「もしもし……どうかした? 突然」
 失礼、のしぐさを千鶴に向けて、不自然でないようにゆっくり立ち上がる。
『たっちゃん? ごめんね、いきなり。久しぶり』
「ああ」
 美羽子の声は、落ち着こう、なんとか自分を落ち着かせようとしている風に聞こえた。
『あっちゃんが今どこにいるか、知らないかな』
「え、兄貴?」
 彼女は昔から、周のことも樹のことも愛称で呼んでいた。家族ぐるみで仲が良かったから、二人の母にならったのかもしれない。
 にしても予想外だった。彼女なら兄弟の仲が悪いと知っているはずだ。わざわざ樹に電話してくる理由、とは。
「兄貴がどうかしたの?」
『家に帰ってこないの。連絡も取れなくて』
 さっき駄目出しされたばかりの時計を確認する。時刻は、日付が変わるちょっと手前。
「まだ心配するのは早いんじゃないか? いい大人なんだし」
 急な残業だとか、上司に飲みに誘われたとか、いろいろ可能性はあるだろう。
『今まで連絡なしに遅くなるって一度もなかったから。電話してるんだけど、まったく出ない。大げさかなとは思ったんだけど会社にも電話してみた。警備の人が出て、今残ってる人は誰もいない。ノー残業デーだし、ラストの人もだいぶ前に出てるんじゃないかって。電車も一通り動いてる』
 美羽子は一つ一つ唱えるように言った。
 樹も、さすがに不安になってきた。店の出入り口に着いたので、階段を下りる。
「うちの親には?」
『まだ言ってないの。それこそ大したことない話だったら、心配かけるのも悪いと思って……』
 声が小さくなる。電波の状態が悪いのか、音がぶつ切れて聞こえる。
『どうしよう、でも心細くて……何かあったんだったら、どうしよう、たっちゃ』
 ブチ。
 電話が切れてしまう。え? と思って画面と、自分のいる所を慌てて見回した。
 ……出入り口から外に出たつもりが、反対だった。この店はそもそも地下にあった。階段を上らなければいけないところ、化粧室に向かうほうを下りてしまったのだ。
 兄がいなくなった? 連絡がとれない?
 美羽子のあんな声は今まで聞いたことがなかった。小さい頃からいつでも明るくて、勝ち気で、周も樹もいつも彼女に着いて回って遊んでいたのだ。
 自分で思っている以上に動揺していた。電話を掛け直すには電波の入るところまで行かなければいけないのを忘れ、そのまま受話器を耳に当てる。間違えた、と思い慌てて駆け上がろうとする。
 と、そこに千鶴がいた。
「何があった」
 真剣な目だった。
「大したことじゃないんだ、ただ」
「西條がどうしたんだ」
 会話を聞かれていたのか。
「兄貴、まだ家に帰ってなくて、連絡が取れなくなってる。でもまだ何かあったって決まったわけじゃ……」
 千鶴は目を見開いた。もともと色素の薄い顔が、蒼白になる。けれど、つとめて平静を保とうとするように、彼は続けて尋ねた。
「電話は、誰から」
「美羽姉。すごい不安になってるみたいで、声震えてて……あんなしっかりした人なのに。俺、なんて言ったらいいか……」
 心配するほどじゃない、と考えようとする一方で、彼女の不安感に樹も引きずられかけていた。
「そうか」
 千鶴は言った。
「落ち着いたほうがいい。心配はしてもいいが、騒いだって何も解決しない。まずは君が冷静になって、それでもし彼女が心配な様子なら、ついててあげたらいい」
 一つ一つ目を見てゆっくり言われると、早鐘を打っていた心臓がだんだん鎮まってくる。
 初めて、千鶴が自分より年上の大人の人間なのだ、と実感させられた気がした。
「電話、途中で切れたんだろ。ここは不安定だから、外に出て話してくるといい。会計は済ませておくから」
「……ありがとう、そうする」
 今度こそ階段を駆け上がる。きちんと番号を確かめてから、リダイアルを押した。
「もしもし? ごめん。地下にいたんだ」
『……うん』
 あいかわらず、か細くて途切れそうな声が聞こえる。
「大丈夫だよ、美羽姉。ちょっと何かあって兄貴は遅れてるだけだ。携帯はたまたま充電が切れたか、どこか置き忘れたりしちゃったんだろ。たまにはそんなことくらいある」
 何か言われないうちに、続ける。
「一人で待ってるの不安だったら、今からそっちに行くよ。どうする?」
『来て。お願い』
 間髪入れずに返事があった。
「家、正確な場所、わからないからメールで送ってくれる。今出先だからちょっと時間かかるけど、すぐ行くから」
『わかった。ありがとう』
 頼りない声のまま、電話は切れた。千鶴に礼を言わないと、と樹は店の中に戻る。
 ……千鶴はいなかった。
「お会計はお連れ様が先ほど」と言われてしまえば、「そうですか」と引き下がるしかなかった。
 どうしたんだろう、と気は急くが、まずは美羽子だ。駅まで早足で歩き、残り本数も少ない電車に飛び乗る。


「ごめんね。夜遅いのに」
 ドアを開けてくれた美羽子は、記憶より少しふっくらしたようにも見えたが顔色がとても悪かった。
「兄貴から連絡は?」
「まだないの」
「わかった。一緒に待とうな」
 半ば無理やり、笑顔を作った。
 美羽子の元に向かいがてら千鶴にメールも電話も入れたが、応答はなかった。何も言わずに、いったいどこへ向かったのだろう。まさか、周の行く先にあてがあるとでも?
「西條」と言われたとき、樹はとっさに誰のことだかわからなかった。少し置いて、彼が兄のことをそう呼んでいたのだ、と気づく。だから、一緒にならないように自分のことは「樹さん」と呼んでいたのだ。
 なんだよ、と樹は思う。俺だって、西條だよ。同じだよ。
 ……そのかすかな苛立ちが何に基づくものかは、分かっていない。
 正直、来て何ができるわけではなかった。美羽子に座って、と言われてダイニングの椅子に腰掛ける。
「ありがとう。たっちゃん来てくれただけで、すごい落ち着いた」
「そう? それならよかった。俺大丈夫だから、疲れたなら寝てたらいいよ」
「大丈夫、へいき」
 美羽子がコーヒーを淹れてくれて、少し口をつける。どうすることもできない時間が過ぎるあいだに、あっという間に冷めていく。
 せめて彼女の気を紛らわせてやらないと、と話のきっかけになるものを探して樹は部屋の中を見渡した。
 間取りはおそらく1LDK。今座っているダイニングスペースの奥に、小さめのソファーとローテーブルが置いてある。樹の椅子のすぐそばには小さめの棚があり、上に写真立てが二つ飾られていた。
 一つには明らかにウェディングドレス姿の美羽子が映っていたので、ぱっと目を逸らす。そして視線を移した先には、子どもが三人たわむれていた。
「あれ、これ……」
 考える前に声に出していた。あ、と思いその後で、まあいいや、と思った。
「ああその写真ね」
 美羽子が答える。彼女の表情がここにきてから初めて、少し緩んだ。
「結婚のお祝いで、写真立てをいくつかもらったの。何入れよっかなんて言ってたら、あっちゃんが『これにしよう』ってわざわざ実家から持ってきてね」
 三人の子どもは、周、美羽子、そして樹。
 家族ぐるみでどこか海に遊びに行ったときのものだった。黄色い水着にオレンジ色の浮き輪をはめた美羽子が弾けんばかりの笑顔で、周が写真に入るよう引っ張り込んでいる。彼は昔から控えめで、写真を撮られるのも苦手な性格だったのだ。
 とはいえ、嫌そうな顔はしていない。困ったように小首をかしげる表情は、リラックスしているようにすら見えた。
 そして、樹は二人の後ろ。足元からしっかり覗くよう、にいっと満面の笑みでうつりこんでいる。
「懐かしい、な……」
 樹は思わず呟いた。自分がこんな顔をしていたなんて、すっかり忘れていた。
「いい笑顔でしょ。たっちゃんも、みんな」
 美羽子は慈しむように言った。
「なにも変わってないよ。たっちゃんもあっちゃんも、私だって」

 それから、何度か電話をかけてはみたけれど、一向に進展はなかった。美羽子は周へ、樹は千鶴へ。
「もう一回だけ」
 彼女が電話を耳元にあてる。機械の向こうの発信音が聞こえそうなほどに、樹も耳を澄ませていた。
 ……ブブブ、ブブブブブ。
「ん?」
 美羽子の表情は変わらない。
 ブブブブブ。
「美羽姉……聞こえる! そのままにして。ごめん入るよ!」
「え?」
 立ち上がって振り返る。閉められていた扉を開けた。
 予想通り、寝室だった。一層音が大きくなる。
「たっちゃん?」
「やっぱここだ。布団の中だと思う。まくって平気?」
「大丈夫、だけど……」
 美羽子の許可を得て、敷きっぱなしだった布団に耳を傾け、めくり探していく。彼女は発信したままの電話を持って後ろに突っ立っていた。
「あった」
 最終的に周の携帯電話は、敷き布団のさらに下から出てきた。普通にリビングにいたら気がつかなかったはずだ。そのくらい微かな音が、樹に持ち上げられてようやく聞こえるくらいになった。
「なんでそんなとこ……信じられない。ていうか、私のせいよね。ちゃんと布団畳んでたら見つかったのね……ごめん」
「いや、兄貴本人が持ってない以上、見つけたところで事態変わらないしさ。大丈夫だよ。いや大丈夫なのか?」
「そうね」
 美羽子がため息をついた、瞬間、今度こそピロピロピロと着信音が鳴った。
「え? あれ?」
「こっちじゃないよ。美羽姉の電話じゃないか?」
「そうだ。……え、公衆電話? とにかく出なきゃ」
 慌てて美羽子は携帯電話を持ち替える。
「はい。もしもし。え? うそ、あっちゃん!」
 薄い直方体が、ぎゅっと握りしめられる。
「もう本当、心配して……え? 病院? 病院にいるの?」


 美羽子が待っていられないというので、車で周のもとまで向かった。自分で運転するという彼女があまりにふらふらして見えたので制し、樹が運転した。免許を取って以来初めてだということは黙っていた。
「美羽! 走っちゃだめだって。まさか車で来たのか? 待ってろって」
「大丈夫だから。たっちゃんが、運転してくれたの」
「……樹?」
 朝日がすでにのぼりはじめていた。総合病院の夜間出入り口から入ったところでちょうど出くわした周は、一夜を越したスーツがくたびれ、目の下に大きなクマができていた。
 彼は駆け出しかかった美羽子しか目に入っていなかったらしい。後ろについていた樹は、周と目が合ってしまったので、小さく「久しぶり」とだけ言った。
 周は、ふっと顔の力を抜いた。
「もしかして、一緒に待っててくれたのか。ありがとう」
「緊急事態だったんだろ。……大丈夫だよ」
「免許取ったって、そういえば聞いたな。大学忙しいのに、大変だっただろう」
 樹は少しびっくりした。
 周が自分を気にかけてくれていたことに。こんなに自然に会話を交わしていることも信じられなかった。前に自分から話しかけたのなんて、いつのことだっただろうか。
「まあな……ってか、そんなの今はどうでもいいから」
 引き返すように扉から外に出た。朝の輝きがビルの群れをすり抜けて、目に刺さるほど眩しい。
「浅井さんの容態はどうなの?」
「まだ意識が戻ってない。でも手術は成功だって言ってたし、ご家族も到着したから」
 無事に良くなるといいんだけど……。祈るように周は付け足した。
 周の失踪疑惑の全貌はこうだった。
 ノー残業デーではあったが、明日までの急ぎの仕事があったため上席と二人で残っていた。その浅井が「一服してくる」と言って部屋を出て行き、しばらくたっても戻ってこない。おまけに外で不審な音がする。用を済ませがてら様子を見ようと廊下に出ると、浅井が気を失って倒れていた。慌てて救急車を呼び、同乗してこの総合病院まで来た。
「脳出血だって言われた。あと少し遅かったら本当に命が危なかったらしい。肝が冷えた」
「そうなの……良かった……良くなかったけど、本当に良かった」
 美羽子が言った。
 救急車の中でようやく朝から携帯電話を忘れていたことに気づき、到着すると急いで公衆電話に向かったそうだ。会社に連絡して緊急用の名簿からまずは上司の連絡先を聞き出し、浅井の家族に連絡が取れたときには、もうだいぶ時間が経っていたという。
「よっぽど気が動転してたのか、美羽の番号が思い出せなくて」
「携帯電話の時代になってから、なかなか番号覚えられなくなったしねえ……」
「実家経由でと思ったけど、夜中だから母さんももちろん寝てたみたいで。時間がかかってしまった。自分のは家に忘れたはずと思ってたから、そっちにも何度か掛けてはみたけど」
 美羽子が息をついた。
「ごめんね、全然気づいてなかったの。それもたっちゃんが後から見つけてくれた。さすが地獄耳! と思ってたけど、よく考えたら私がなんだかぼうっとしてただけかも……」
「しょうがないよ。樹、本当ありがとな」
 樹は何だか恥ずかしくなって、黙って頷き目を逸らした。
「じゃあ、帰ろうか。美羽、ちょっとごめん」
「はいはい」
 周が荷物を彼女に手渡した。その上に載っていたマフラーに、なぜか既視感を覚えた。
「樹、送っていくよ」
 コートを着ながら兄が言う。
「いや、俺は……」
 まだ少し気まずかったから、断ろうとしたその時だった。後ろからバタバタと、足音が聞こえた。
 ん、と思い後ろを向く。走ってくる男性。樹には見向きもしない。
「え、なんで? 千鶴?」
 周が不思議そうに首をかしげる。
「西條!」
 心臓がどきりと疼く。
 そこには頬を真っ赤にした千鶴が、肩で息をしながら立っていた。


「西條、無事なのか。大丈夫なのか? いなくなったって聞いて、病院だって言うから……何があったかと……」
 息せききったまま、千鶴が吐き出す。
「俺はただの付き添いだったんだ。大丈夫だよ。というか、なんで千鶴が?」
 周が不思議そうに言う。
「……俺だよ。知り合いなんだ」
 樹はふわふわしながら口にした。胸の中には疑問符が渦巻いている。
 ……なぜ千鶴は、こんなにも兄のことを心配する? 横の美羽子をなぜ見ない?
「たまたま昨日一緒にいてさ。そこで美羽姉から電話があったから」
 疑問を抱きながらも、続けて説明した。
「そうだったのか。迷惑かけて悪かった。同僚が倒れたり俺が携帯忘れたりと、色々あって」
「いや、無事ならいい。なんだって、いいんだ……」
 千鶴は心底ほっとしたように見えた。膝に手をついてうなだれてしまった。
 彼がここにいるのは、本当に樹の仕業だ。周からの電話があった後にメールを送ったのだ。兄を迎えに病院へ行くと。
 兄がいなくなったと伝えたとき、千鶴の顔色が本当に悪く見えたから、少しでも安心してくれればと思ってのことだった。恋敵とはいえ、兄ともきっと仲のよい友人だったんだろう。行方不明と聞いたら、不安になるのも当たり前のはずだ。
 しかし、本当にそれだけなのだろうか。
 美羽子が言った。
「由井さん、お久しぶりですね。すみません……ご心配をおかけしてしまって」
「いえ」
 千鶴は落ち着いた声で返事する。その冷静さに、やはり違和感を覚える。
「今日、お仕事は大丈夫なんですか?」
「……遅出なので問題ありません」
「今は店舗だから、九時五時じゃないんだろ?」
 周が口を挟む。
「ああ」
 樹の目の前で三人が会話を交わす。
「そっか、そういえばあっちゃん、こないだ由井さんのお店で買い物したって言ってたね」
「そうだよ」
 ……え?
 千鶴の店で買い物をするのが、兄?
「マフラー……」
「そうだ。これを千鶴が薦めてくれて」
「ちょっと派手だけど、ちゃんと似合うからすごいよね」
 美羽子が楽しそうに言い、周がそれを首に巻いた。千鶴は黙っていた。
 樹は、はっきりと思い出した。千鶴に会うため店に行ったときのこと。ちょうど季節が切り替わるころで、店内には冬物商品が並んでいた。
 まさに、そのマフラーが置いてあった。洗練された、忘れられない鮮やかな色づかい。
 ……どういうことなんだ。
「千鶴、どうする? 車があるから樹も乗せてくんだ。お前もそんなに遠くなかったよな。送る」
「いや、俺もいい」
 心臓がみしみし音を立てていた。悟られないように、落ち着け落ち着けと念じながら言う。
「由井さんとちょっと話があるから。兄貴、疲れてるだろ。美羽姉も。まっすぐ帰ったほうがいいよ」
「そうだな……美羽も心配だしな。悪い、それならそうさせてもらう」
「二人とも、ありがとう。気をつけてね」
 駐車場に向かう後ろ姿が見えなくなった。
 千鶴は、まだぼうっとしているようだった。樹は言った。
「由井さん。今まで、どこ行ってたの? 家に帰ってた?」
「どこも……いや。歩いていただけだ」
「一晩中? 長くない?」
「そうかな……あまり、覚えていなくて」
 日が昇ってきたとはいえ、底冷えがする。日差しは暖かいのに足先から冷えてきて不思議な気分だ。
 樹は言った。
「由井さん。俺に、嘘ついてただろう」
 焦るでもなく、諦めたような表情の千鶴がそこにいた。樹は、信じたくない、と思いながら口にした。
「好きだったのは、美羽姉じゃなくて、兄貴だったんだろ」


 その台詞を口に出した瞬間、美羽子には感じなかった猛烈な嫉妬が、爪の先まで行き渡るのを感じた。
「そうだ」
 千鶴の落ち着いた返事がいっそう嫉妬心を煽る。
「なんで。嘘なんて。俺今までずっと勘違いして……」
「嘘は付いていない。僕は事実しか話してない。ただ、君の勘違いを訂正することはしなかったが」
「どうしてだよ。あれから何度も会ったじゃないか。言ってくれるチャンスなんていくらでもあった」
 屁理屈だとわかってはいた。
「あの日以来、そのことについての話は出なかった」
 千鶴の言うことが真実だった。
 けれど、樹は許せなかった。
「そんなに俺は信用なかったのか? だって今でも好きなんだろ。十年気づけば過ぎてるくらい、こっそりめちゃくちゃ泣くくらい、思い出大事に抱え込んで、会えただけでうきうきしちゃうくらい好きなんだろ。心配して一晩歩き回るくらいなのに……俺には、ずっと嘘のままだった」
 本当は理解していた。弟に向かって「君の『兄』が好きです」なんて安易に言える台詞ではないことを。
 また、言う必要がないことも。二人が積み重ねた思い出と比べて、自分が千鶴と過ごした時間のなんと短いことか。
「つこうと思ってついたわけじゃない」
「そりゃそうだろうな。俺が勝手に勘違いしてただけだもんな。言う義理なんてねえよな。友達でもない、ただの弟なんだし」
 自棄になったように言う。
「それは違う。ただ僕は」
「もういい」
 言い捨てて、樹は千鶴の横を通り抜けた。駆け出しそうになる足を抑える。向かう方角から降る朝日が眩しい。何も、見えない。
 わかっていた。気づいてしまった。
 千鶴が、好きだ。
 好きだからこんなにも苦しい。千鶴が周しか見ていないから苦しい。そんな事実が自分には見えなかったことが、悔しい。
 千鶴は追いかけてこなかった。意地を張って走らず歩き続けるが後ろから足音は響かない。
 恋は始まっていた。……始まる前から失われている恋が、始まってしまっていた。



 

| [小説][BL]この腕いっぱいの幸福 | 08:02 | comments(0) | - |  拍手! | にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説家志望へ
スポンサーサイト
| - | 08:02 | - | - |  拍手! | にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説家志望へ









+ PROFILE
+ SELECTED ENTRIES
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ RECENT COMMENTS
+ LINKS
+ MOBILE
qrcode
+ PR
+ RECOMMEND
+ OTHERS
このページの先頭へ